【レポート稽古場①】『夜ヒカル鶴の仮面』by 斎藤明仁

稽古場からのレポートです。

2021年10月に京都芸術大学にて上演される川口智子演出『夜ヒカル鶴の仮面』、そのお稽古の第1週のうちの二日間を見学させていただいた。なお、これは演劇というものに全くの無知である素人が主観で書いた戯言である。

見学させていただいたうちの一日目。その日の大学での講義を終えてからお稽古場に入ると、役者と演出家の全員が輪になってそれぞれ筆記具片手に台本とじっと向かい合っている。一度読み合わせを終えた後だったのだろう、川口は役者に台本と異なる科白を発した個所を、しかもそれは「が」と「は」というたったひとつの助詞の違いに至るまで、細かく書き留めていたものを伝えていく。演劇づくりにはこれほど緻密で精度の高い作業が要求されるとは思っておらず、度肝を抜かれた。多和田葉子の言葉を、テクストという地平から余すことなく解き放とうとする川口と、それに応える役者全員の熱い想い(それは執念に近いかもしれない)が既にあぶれている。

一連の作業が終わってお昼休憩に入ると、川口が一言「やっぱりこの戯曲は難しい」と呟いた。一見抽象的だったりとりとめもなかったりすることが語られているようにも思えるが、しかしそのどれもが唯の一言に至るまで実は具体的で、それを舞台化するのが難しいのだという。それを聞いてすぐには真意をつかむことができなかったものの、休憩後の読み合わせでその一片を目の当たりにした。台本を手にして輪になって、ト書きも声に出すという不思議な読み合わせだった。ト書きは四人で同時に読まれる。一番初めのト書き「中に妹、弟、通訳、隣人が横たわっている」の「妹、弟」が発声されるとき、「と」という語がわずかなうちに十二個もぽぽぽっと浮かび上がったところは面白かった。流れるような読み合わせが不意に止まる。通訳の科白「最近、ある専門誌で、ある技師が」という個所だった。「それ、誰に云っているの」

テクストを読むとき(それは多くのテクストに云えることだろうが)、ある科白が誰に向けたものなのかということは気に留めることは少ないか或いは無意識のうちに理解したつもりでいる。それを気にして逐一立ち止まることはない。しかし、舞台で上演するとなれば話は別である。誰に向けたものなのかを明確に決めて共有しなければ役の視線が定まらない。視線が定まらなければ舞台は出来上がらない。通訳は弟に話しているのか隣人に話しているのか―そうか、この戯曲はどこまでも具体的である。

それからお稽古は川口の不意の発案によって「デタラメ語翻訳」という遊びへと移る。現地人が二人、通訳と観光客が一人ずつ、現地人が二人で話すテーマを密かに決めて、デタラメ語(文字通りデタラメな言葉である)で話すそれを通訳が日本語に直して観光客に伝えるという遊びである。川口は後から見学に来た学生に「遊んでいるだけだから」と説明していたものの、しかしこれは唯の遊びには留まらないだろう。通訳は、現地人二人の距離感・語気・話す長さ・息遣い・表情・ジェスチャーといった言語以外のあらゆる情報を具に観察して、筋の通る話を瞬時に組み立てるという高度な技術が要求されている。『夜ヒカル』でも通訳を演じる中西星羅は、この川口の「遊び」に苦悩しながらも、何度もやっていくうちにその通訳の精度を上げていった。

見学させていただいたうちの二日目。お稽古は『夜ヒカル』全体を通した読み合わせから始まっていた。台本は持たず輪になって、今度は科白読みだけでなくソーラン節や盆踊りなどの振り付けが加わっていた。何をしていても科白が口をついて出るようにするためのものであるという。科白が即時に出てこなければ、科白に気を取られてしまえば、数パターンの反復である振り付けさえも曖昧になる。以前からこの取り組みは行われていたようだが、私が目にしたのは今回が初めてだった。儀式をつくるために儀式を用いているというのはなんとも面白い。

お稽古は昨日行われた「デタラメ語翻訳」の発展形へと移る。昨日と同様、焦点が当たっているのは通訳という役割の果たすものである。どうやら川口は、本作品を特に通訳に重きをおいて組み立てているようである。しかし今回は方法が少し変わって、ひとつの舞台を二人でつくる。川口からの条件は、デタラメ語を話す二人が不意に出会って、話し、一緒に退場するということだった。相手が何をやっているかが分らないうちは不用意に近づけない、相手の行動を理解するまで観察し、それから近づくまでには相当な時間がかかるということ、また理解して近づいたとしても相手の行動を観察し続けるには一定の距離が保たれている必要があることを川口は何度も強調していた。

その後、再び昨日と同じ方法で「デタラメ語翻訳」を取り組むと、中西は既に通訳を、しかも同時通訳を習得していた。ときどき考えて止まることはあるものの、昨日と比較して水を得た魚のようにすらすらと話が構成されていき、私たち観客は(このとき観客役はその場の見学者全員だった)通訳を通してまさにその舞台をその物語を「観た」のであった。この部分だけを断片的にみれば、自然なことで不思議にも驚きにも感じられないかもしれない。しかし、これは確実にこの第1週のひとつの到達点であると云えるだろう。

お稽古は『夜ヒカル』の読み合わせで終わる。今度はタイムトライアル形式だった。結果は37分。川口はこれを30分以下までに縮めるようにしたいと話した。この後は上演に必要な小道具の買い出しに行くようであった。

ところでこの日、『夜ヒカル』上演の映像担当である北川未来氏に初めてお会いすることができた。この夏に行われたアジアのアーティストたちへの結婚式とお葬式に関するインタビューの映像を編集しているそうである。どうやらこの映像が、上演の意外なところに挿入されるらしいということは上演までのお楽しみに取っておくことにする。いや実は待ちきれずに既にちょっぴり聞いてしまったのだが。

様々なところで様々な分野の方々が、『夜ヒカル』上演に向けてぐつぐつと煮込んでいる。煮え立つ香りをほのかに感じながら、1週目の見学を終えた。

斎藤明仁(上智大学)

川口智子の制作ドキュメントはこちら

Tawada × Müller = Project

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