【レポート③】「多和田葉子の演劇」

『夜ヒカル鶴の仮面』をめぐる連続研究会のレポートです。

◆第3回 9月13日(月)19時~21時20分 オンライン開催 

登壇者:谷川道子(東京外国語大学名誉教授)、小松原由理(上智大学准教授)、谷口幸代(お茶の水女子大学准教授)、關智子(早稲田大学他非常勤講師)、川口智子(演出家)、山田宗一郎(俳優)、中西星羅(俳優)、武者匠(俳優)、斎藤明仁(上智大学)

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2021年10月に京都芸術大学にて上演される川口智子演出『夜ヒカル鶴の仮面』に先駆けて演劇現場と研究の双方の視点から読み解いていく研究会。2021年9月13日に開催された第三回は、再び演劇現場に重点を置き、「再読」をテーマに読み解いていった。本論に先立って、『夜ヒカル鶴の仮面』への案内役として、多和田葉子の修士論文である「ハムレットマシーン(と)の〈読みの旅〉」から第五章の簡単な紹介がされた。なお、こちらの全邦訳が、谷川道子ほか編『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 演劇表象の現場』(東京外国語大学出版会、2020)に収録されている。

谷口幸代氏は、第二回研究会にて民話と『夜ヒカル』との関係を考察した。今回はそれに続くかたちで、『古事記』との関連から本作品を読み解く。まず、『夜ヒカル』の感覚器官から子を産むという姉の出産の描写について、『古事記』の三貴子誕生譚に由来すると云えるとする。„Orpheus oder Izanagi“や『地球にちりばめられて』、『星に仄めかされて』、『太陽諸島』など、『古事記』の影響がみられる多和田の作品はいくつか存在する。『夜ヒカル』はこうした『古事記』を下敷きにした作品創造の系譜のひとつとして位置づけられると谷口氏は語る。

但しその改変の方法に注目すると、(感覚器官から出産をするという例が他の国・地域においても存在し、『古事記』固有のものではないということに触れ)「様々な国や地域で、様々なかたちに変容しながら広がりを持っている、流動的な無数の断片として取り入れられていると云った方が良いのではないか」とも考察した。そのような側面を持つものの、多和田は神話で迫害された存在を、建国事情や万世一系の思想という日本神話に強力なイデオロギーを転覆させ、国家というものを打ち破る可能性を秘めたものとして再創造していると云えるだろうと語った。

小松原由理によるドイツでの上演の紹介と、それに対する緻密な批評・考察は、研究会の場に20年以上前の過去を色鮮やかに蘇らせたかのようだった。小松原はまず、本作品が初演されたグラーツの藝術祭「シュタイエルマルクの秋」に注目して分析する。「シュタイエルマルクの秋」の紹介動画を挙げながら、このイヴェントが50年代アヴァンギャルド中心組織の牽引のもとで、あらゆるジャンルの藝術の表象実践現場であったこと、そもそも『夜ヒカル』が演出家エルンスト・ビンダーの依頼がきっかけであったことを指摘したうえで、多和田自身もこのイヴェントで上演されることを意識して『夜ヒカル』を創作したことが考えられると語る。さらに、ヨーロッパのアヴァンギャルド運動、特に50年代ネオダダ(そのはじまりがヴィーンであったことも含めて)において、身体が如何に痛みを持ち、その痛みを如何に他者と共有できるのかという試みがあったことに触れ、身体というテーマが「シュタイエルマルクの秋」のどの舞台にも集中して取り上げられていたのではないかとも考察した。

その後ベルリン客演の際の劇評を紹介、小松原邦訳のそれには、鮪の入った瓶をみつめる「わたし」、言葉の破壊と不条理な対話、白塗りの二人の裸体が亡霊として物語をさまよう、といった言葉が並ぶ。小松原は劇評をもとに、非常に静寂な雰囲気が漂った舞台だったのであろうと分析した。2008年フレンスブルクでの上演の際のものと思われる画像及び劇評も紹介された。最終場面であろう一枚の静止画からは、姉と観客の視点が一体化し、そこにお面が浮かび上がる情景になっており、極めて工夫された舞台なのではないかと語った。

關智子氏からは、『夜ヒカル』を「現実の舞台で俳優の身体を用いて書かれている戯曲」という前提を踏まえて読むという視点から考察があった。まず、前回の土屋勝彦氏の『夜ヒカル』プロローグ・エピローグにおける音のイメージのつながりという指摘に触れ、ふつう戯曲では進行の要が物語・対話の整合性や論理性であるが、本作品ではそれが言葉・音であることは非常に興味深いと語る。

また關氏は、『夜ヒカル』のト書きの特異性についても考察した。通常、戯曲におけるト書きは具体的な上演指示であり、現実で表現できるかたちで書かれている。しかし、『夜ヒカル』では上演不可能に近いかたちで提示される部分がある。この「上演不可能なト書き」はドイツ演劇に多くみられるように考えられるとする。或いは、「私」という語についてである。ペーター・ハントケ『私たちがたがいになにも知らなかったとき』は全てト書きであり、そのト書きの中に本来登場するはずのない「わたし」という語がある。一方で、ハイナー・ミュラー『画の描写』は全て科白であり、その最後は「わたしは誰」という問いかけになっている。つまりこれらの作品には、「わたし」=言説の主体とは誰かという問題が存在している。同様の問題が『夜ヒカル』のプロローグ・エピローグの「わたし」にも内包されており、この点からもドイツ演劇の文脈を引き継いでいるのではないかと考察した。

研究会は關氏と川口智子の対談へと移行する。舞台化に関する關氏の問いかけに、学芸大での取り組みの際、川口は『夜ヒカル』が如何に科白劇・会話劇だったかということに気づいて驚いたということを最初に語る。また、本作品では姉と妹の関係性が不明瞭であるように思うとし、それはサラ・ケインの役名のないダイアローグやモノローグに近いと考えているとも語った。關氏はそれを受けて、弟という役でさえ「姉さん」と呼ぶまでは誰だか分からないし、死体も誰の死体でもないことだってあり得るかもしれないとさらに敷衍した。

仮面・登場人物・俳優の関係については、非常に重要であると同時に極めて難しい問題である。舞台化を考慮すればなおさらである。その解決のヒントとなる出来事として、川口は(別の作品づくりの際に用いた)「三人称過去形」での自己紹介という取り組みを明かす。そして、演劇をつくる根底の考えには「私はたぬきにはならないが、どうやったらたぬきになれるか」というものがあると語った。

本作品が発表された頃の多和田の「多産ぶり」については、過去二回の研究会にて既に語られていた。ミュラーとベンヤミンと夢幻能の三角関係への意識がこの頃の多和田作品(エッセイや論文含め)にみられ、『夜ヒカル』にもその痕跡が残っていないはずがないだろうと谷川道子は考察する。谷川は今回、本作品を多和田夢幻能という視点から読み解いていこうとする。夢幻能という形式が本作に見出せるのなら、まずプロローグ・エピローグは地謡であると同時に通奏低音の役割を果たすと云えるかもしれない。シテは姉であり、これはオフィーリアにも重なるという。姉は語れないが内語を持ち、その内語の宇宙というテーマはコロスの問題とも関わってくるだろうと語った。また、姉とオフィーリアを重ねることができるなら、オフィーリアはモノローグさえもできずにいた(『ハムレットマシーン』ではエレクトラに語らせていた)という部分さえも転覆させようとする試みがあるのではないかとも考察した。谷川によるこの多和田夢幻能論は、2021年10月31日開催のフォーラムにて、日本語版とドイツ語版の相違への考察も含めた大きな流れの中で発展していくようである。

最後に谷川は『夜ヒカル』全体を通して、本作がどこまでがモノローグでどこまでがダイアローグなのかという境界が不明瞭であるが、しかし「声」は語られる、それこそ演劇ではないかという想いが多和田にはあったのではないかと考察した。

あるシンガポールの劇作家の多言語劇が、当初『夜ヒカル』舞台化のテーマであった「アジア多言語」のきっかけになったと川口は語る。あるひとつの作品をつくるとき、つくっていくうちにもはやその作品だけを読み込むという営みに留まらず、それから想起されるいくつもの作品をも読み解いていくことになることがあるという。川口はそれを「光の乱反射」と巧みに譬えている。また、コロナという未曽有の災害も大きく影響した。コロナ禍の状況、エドワード・ボンド『戦争戯曲集』の第二部「缶詰族」、そして『夜ヒカル』の儀式を忘れた弟が、重なって乱反射していくのだと語った。制作に至るまでの様々な状況について、川口のブログにて川口自身の言葉が掲載されている。

三回に亘る研究会はこれにて閉幕する。演劇現場と研究をより結びつきの強いものにするという当初の目的は余すところなく達成されたであろう。研究会に御参加くださった全てのみなさまに心より感謝申し上げる。

斎藤明仁(上智大学)

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