【レポート②】「多和田葉子の演劇」

『夜ヒカル鶴の仮面』をめぐる連続研究会のレポートです。

◆第2回 8月4日(水)19時~21時20分 オンライン開催 

登壇者:谷川道子(東京外国語大学名誉教授)、小松原由理(上智大学准教授)、谷口幸代(お茶の水女子大学准教授)、關智子(早稲田大学他非常勤講師)、川口智子(演出家)、山田宗一郎(俳優)、中西星羅(俳優)、武者匠(俳優)、斎藤明仁(上智大学)

ゲスト:土屋勝彦(名古屋学院大学教授)

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2021年10月に京都芸術大学にて上演される川口智子演出『夜ヒカル鶴の仮面』に先駆けて演劇現場と研究の双方の視点から読み解いていく研究会。2021年8月25日に開催された第二回は、ゲストに土屋勝彦氏(名古屋学院大学教授)もお迎えし、『夜ヒカル鶴の仮面』のテクストそのものに立ち戻って解釈することを主題として展開された。本作品はドイツ語と日本語の二か国語にて発表されているという特徴もあり、それらの対比からも興味深い考察がなされた。

ドイツ語版が日本語版と最も異なっているところは、プロローグとエピローグが挿入されているという点であろう。研究会はそのプロローグ・エピローグの紹介から始まる。以下にそのごく一部を引用し、拙訳をともに書き記しておく。

Prolog
STIMMEN:
Die Zahl EINS war mein kleiner Bruder

Er kam zu mir und sagte, die Welt bestehe aus Wasser

Das Wasser sei immer eins, auch wenn man viele Gestalten darin zu sehen glaubt

Tiere, Bücher, Kochtöpfe:

Sie sind nur eine provisorische Versteinerung des Flüssigen(…)

(Yoko Tawada: Die Kranichmaske, die bei Nacht strahlt. 1993, S.8)


プロローグ

声たち:

数一は私の弟でした

彼は私のもとに来て言いました、世界は水から成り立つと

いろんな姿があるように思えても、いつだって水は唯一無二なんだと

例えば動物、書物にお鍋

それらはみんな、流れる水のほんの仮初の姿だ(…)


研究会ではプロローグ・エピローグに加え、その影響のためか日本語版との大きな相違がみられる戯曲冒頭及び末尾の部分の日本語朗読(拙訳)が川口智子主導のもと中西星羅・武者匠・山田宗一郎の三氏によって試みられた。2019年のリーディング劇が思い起こされるかのような独特の雰囲気に、また多和田作品に潜在するめくるめく不思議な世界に、Zoom空間は束の間熱く抱擁されることとなった。二次元であるテクストが三次元空間の言葉や身振り表情に「翻訳」される営為がまさに「体験」できたことであろう。本プロジェクトが辿り着きたい地点がほんの少し垣間見えたように思った。


ドイツ語版のプロローグ・エピローグについて、土屋勝彦氏はここに内在されている詩的言語の遊びの面白さを語った。例えば、Zahl-kam-sagte-Wasserなどの「a」の音の響きのつながりやviele-Tiereといった似た音の響きの語の導き出し、さらにはVersteinerungから殻・甲羅・爪といった固いものへの呼応など、「言葉の音やリズム感を大事にしたテクストであると云える」とする。或いはエピローグにあるDurchgangstorを例に挙げ、動詞の名詞化や名詞の動詞化など言語そのものが持つ変化の可能性をも楽しんでいるようだと語った。そのような言葉の変形の観察や言葉の根源的力を引き出すことには異質の眼で見つめることが必要であり、その点で多和田のテクストは非常に優れているとしただけでなく、様様な解釈が可能な世界をあえて残しカオスとコスモスを交差させるダイナミスムが存在しているということ、それがしかも演劇世界の変容しようとする時代に登場したことが面白いとした。この貴重な御指摘によって、『夜ヒカル』は(日本語版の考察だけではあまり見えていなかった)詩的方向性にも開かれていたのだということも明らかとなった。

演劇研究の視点から、谷川道子は多和田が書く/描く・訳す・研究するという営みの中でハイナー・ミュラーと出会い、ベンヤミンとミュラー(特に『画の描写』)と夢幻能という三人関係からの「声・身体・仮面」というエッセイが生み出されたことも『夜ヒカル』に大きく影響しているのではないかと語る。また、1990~93年の多和田の文学営為について如何にこの時期が多産であったか(『かかとを失くして』群像新人賞受賞や『犬婿入り』芥川賞受賞など)ということにも言及したうえで、『夜ヒカル』は多和田の醸造過程の到着点として位置づけられる戯曲であるとも語った。さらに土屋氏との対話の中では、本作品は多和田の「オフィーリア・マシーン」としても読めるのではないかという興味深い考察がなされただけでなく、日本語版とドイツ語版は異なる二作品(翻訳ではない)であるとしたうえで、ドイツ語版を夢幻能形式で上演することの可能性も仄めかされた。


谷口幸代氏は『夜ヒカル』の典拠について、特に民話に焦点を当てて語る。本作品に登場する「弟」には主に二つの民話からの影響がみられている。嵐の夜に弟を訪った女性が貝であり、その作るスープが彼女の排尿からできていたというプロットは、日本及び世界各地に類話の存在が確認されている『蛤女房』からの筋の引用であり、超自然の女と人間の男との異類女房譚であるとする。但し、禁忌を破っても(台所を覗く)未だに婚姻の破綻がないこと、また妻の料理の影響でクッキーを美味しいと思うところから離れている点などからいくつかの主題及び筋の変更がなされていると指摘した。同様に亀に乗って亀の家に行くというモチーフは浦島太郎の説話の引用であり、こちらも亀の女とヒトの男との異類婚姻・異郷訪問譚であるとする。つまり、本作品において「弟」はヒトとは異なる文化を体験した異質な存在として登場していると云えるとの考察がなされた。さらに戯曲後半に「わたし」という名の鶴が登場し、「わ」に・「た」にし・「し」ーらかんすという今までと無関係(しかし水繋がり)の異類が結びついていることは、主体性のゆらぎや典拠にない展開をもたらすことになっているとも語った。

「アヴァンギャルドと女性」といった主題でも精力的に研究をしている小松原由理からは、本作品にジェンダー・クィア性という視点からの考察がもたらされた。小松原はまず多和田の修士論文「『ハムレットマシーン(HM)』(と)の読みの旅」(1991)とエッセイ「わたしが修論を書いた頃」(2020)を取り上げ、同時代のフェミニスム理論を学んだうえでのHM論であったことを指摘し、論考を貫く「間テクスト性」への志向などはクリステヴァやイリガライの影響があると語る。そこから棚沢直子氏「時間制と女たち」における主張、クリステヴァが女性も母の否定を必要とすると考えたのに対し、イリガライは象徴的に殺された母の再生・復権の必要があるとしたという部分に触れ、『夜ヒカル』はこの主張に似た読みの行為を先駆けて取り入れているのではないだろうかと考察した。例えばそれは弟の言葉や姉の死(妹の殺し)といったモチーフから読み取れる、母の位置や親子関係への意識的な反特権化、産む性としての母の絶対性の矮小化である。また、バトラー的なクィア性の実践のみならず、アイデンティティの移ろいという点からも本作品は優れた試みがなされているとも語った。さらには「棺桶のクィア性」という視点である。不穏の残物としての棺桶が舞台に見える形で残されることはバトラーの理論の呼応のようでもあるし、非常にラディカルなものであるとするこの指摘は非常に興味深いものである。


川口智子は舞台とテクストの関係について、「上演=テクストからの翻訳」であるとする。研究会では特に、演劇台本のト書きについての語りがあった。ト書きは地の文と科白という関係性の中で位置づけられるものではなく、劇作家自身の演出プランであると考えるとしている。その中にはト書きそのまま上演するわけにはいかないものが存在しており、『夜ヒカル』では「死体」がそれにあたる。演劇は亡霊などの表現は比較的容易いが、「死体」という存在は非常に苦手であり、寧ろ人形といった類のものが上手く表現し得ると語る。また、本作品には冷蔵庫(から電話を取り出す)が途中でふと登場し、そもそも舞台上に冷蔵庫が、しかもそれが棺桶や仮面(これらは冷蔵庫とは全く反対の位置に存在するモチーフであると川口は云う)と同じ場にあったことに対して驚いたという。そういった『夜ヒカル』のト書きの難しさを指摘しながら、家の中/儀式空間という両面性の歪みを上手く表現することが課題であると語った。

リーディング劇での役者の視点から、舞台とテクストの関係についてまた違った面白さがあるようだ。中西星羅氏は本作品が日本語ではあるけれど、人物それぞれが違う文法・違う単語の意味を持つ中で会話が進んでいき、しかもそれがテクストで巧みに表されていることが素晴しいと語った。また山田宗一郎氏は、日本語版の隣人という役が戯曲の進むにつれてその人物像が具体的に明らかとなっていく過程が面白いとする。さらに今回朗読をしたドイツ語版のプロローグ・エピローグに触れ、隣人が「警察か消防士か商人」であることがはじめから明かされていることといった日本語版とドイツ語版の違いも指摘した。


最終回では「「再読」行為の中で」という題を掲げ、再び演劇営為を中心に展開する。これまでの研究会で既に多和田の営為が開くとてつもない地平が眼前に聳え立っていることがはっきりと見えているが、果たしていづこに到達するのであろうか。或いはもはや多和田の謎にとらわれたまま誰も帰って来られないのかもしれない。

斎藤明仁(上智大学)


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