【レポート①】「多和田葉子の演劇」

『夜ヒカル鶴の仮面』をめぐる連続研究会のレポートです。

◆第1回 8月4日(水)19時~21時20分 オンライン開催 

登壇者:谷川道子(東京外国語大学名誉教授)、小松原由理(上智大学准教授)、谷口幸代(お茶の水女子大学准教授)、關智子(早稲田大学他非常勤講師)、川口智子(演出家)、山田宗一郎(俳優)、中西星羅(俳優)、斎藤明仁(上智大学)

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2021年10月に京都芸術大学にて上演される、川口智子演出「夜ヒカル鶴の仮面」に先駆けて、Zoomにて全3回の研究会が行われることとなった。この研究会は多和田葉子の戯曲作品「夜ヒカル鶴の仮面」をきっかけとして、演劇の現場と研究をより結びつきの強いものとすることを目的とし、登壇者も演出家、役者、批評家、研究者と、極めて多くの地平に開かれたものとなっている。2021年8月4日に開催された第1回では、川口演出で2019年に上演された本作のリーディング劇を足がかりに、演劇現場と研究の双方から多彩な視点がもたらされた。

研究会は、当時の上演の記録を鑑賞することからはじまった。物語が声で発されること、床と壁においた白い紙に演者が黒いインクで絵や文字を描く/書くことによって、テクストが劇場空間に三次元的にも二次元的にも氾濫していくという舞台は、観客の「読むこと」の行為の拡大をも意図しているかのようである。筆者は不幸にも上演の場にはいなかったのだが、実際はどのような空気であったのだろうか。その場にいた観客は、きっと素晴しい演劇体験をしたに違いない。鑑賞の後で、小松原由理が上智大学での自身の講義で扱った際の本作品に対する学生のコメントを紹介、やはり演者の声のトーンや抑揚、句点を無視した読み方、演者が文字や絵を書(描)いていく行為が印象的だったといった声が多く並んでいた。

演出をした川口はまず、このリーディング劇の前、2017年に東京学芸大学にて学生と作り上げた劇について語りはじめる。画面にはそのときに学生が製作した仮面の写真が次々と映し出された。魚、鶴、猿、犬。形はもちろんのこと、素材も大きさも全く同じでない四つの仮面。粘土で作られた犬面は、重すぎるが故に着けて演じることができなかったらしい。

学芸大での一連の試みがあったうえで、お通夜における遊びが可能(playable)な部分を拡大させるような上演をしたいと考えたと語る。その「遊び」の様々な行為は、確かに劇中の至る所で見つけることができるだろう。また、本作の言葉のリズムやテンポが特徴的であり、それを書く/描くという身体性の可視化にも焦点を当てたそうだ。

白地に黒が足されていくというこのリーディング劇の「遊び」について、多和田作品を読むときに感じられるイメージの重層化といった点にもつながるだけでなく、さらに書く/描くことの身体性がまさに「見えて」くるようだとの關智子氏の指摘は非常に興味深い。關氏はまた、リーディング劇の生と死の反転、動く/動かない、生きている/生きていないといった点に注目して、ベケットの作品のようだと巧みに喩えている。そのほか、劇中の音楽や笑いについても川口と關の語りが拡大していくと、このリーディング劇がいかに言葉そのものと「遊び」とに寄り添って作られたものであったかが明らかになっていったように感じた。

谷口幸代氏からは多和田作品の中における演劇というものの位置付けについて考察がなされた。多和田が作家デビュー以前より演劇への志向があったこと、ハイナー・ミュラーをテーマとした修論が日本語への創作に向かわせたと語っていることを踏まえ、「多和田葉子にとって書くことの根源的なところに演劇が深く関係していると言える」とする。また、本作品には浦島伝説や鶴女房あるいはそれに準じた伝承が挿入されており、これが定着したテクストではなく伝播・変化していくもので、現在の日常を揺り動かす力を持つとの考察は、まさに多和田作品全体にみられるテクストの声や動きに対する志向につながるものであろう。さらに谷口氏は、それらの伝承の挿入や通訳(翻訳者)の登場などは、多和田の他の作品にも多く登場するものであり、本作品にはそういった多和田作品の根源をなす様々なモチーフも散りばめられているとも語った。

リーディング劇を演じた俳優からの視点ももたらされることは、この研究会の大きな魅力のひとつでもある。中西星羅氏演じる通訳の劇中を通した不気味な、ある種それ自体可笑しな笑いは、おそらく多くの観客に強く印象に残ったことであろう。その笑いにも、川口と中西氏の「遊び」「読み」の行為が巧みに試みられていたようである。隣人を演じた山田宗一郎氏は、テクストと演劇の不快さ、葬式における行動の不可解さを表現するにあたって、自然な人として話すのでなく、科白と距離を持って客観的に向き合う必要があったと語る。

そこから川口が、言葉と演者が一体のままであっては言葉が死んでしまう、だから実は役者にはテクストを(一言一句も同じまま)句読点の位置だけを変えて渡したのだと語り出す。そもそも生の会話は句読点が無意識に打ち直されており、それを生み出すためにもあえて役者の読みぐせを邪魔するようにと仕組まれたその営為は、なるほど見事なまでに劇中で機能している。

最後に谷川道子が、TMP発足の経緯とその現在までの歩み(コロナウイルスという未曽有の災禍の影響も含めて)を振り返った後で、テクストとパフォーマンスの関係性を浮きあがらせることにとって多和田作品のテクストが可能性を大いに孕んだものであり、またその結びつきは生きることそのものの演劇性にもつながっているのではないだろうかと語った。演劇現場と研究との両視点から読み解くことについて天野文雄氏からも、感覚的広がりがある演劇現場と空間的時間的広がりのある研究は本来連携が不可欠であり、それを結びつけることこそがプロジェクトの目的であるとのお言葉をいただいた。

次回の研究会では『夜ヒカル鶴の仮面』のテクストそのもの、ドイツ語と日本語の違いを中心に、様々な視点から読み解くことを試みる。第1回で明らかとなった本作の平面的多層的広がりは、さらに拡大して私たちの目前に現れていくこととなるだろう。

斎藤明仁(上智大学)

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